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ダッハウ強制収容所 冊子本 日本語訳#1 [◆旅 ドイツ旅行記]

以前書いた記事「ドイツ 【ダッハウ強制収容所】 行き方について」で触れた、収容所記念館で販売している冊子本が英語であったため、日本語に訳してみました。(内容におかしい点があればご指摘ください)
Barbara Distel(元ダッハウ収容所記念館館長)が記したものです。
項目ごと、何回かに分けてこのブログに載せたいと思います。 今回はまず第一項目目。

 

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「ダッハウ強制収容所」
自主出版:1972年
著者: Barbara Distel

 

① 【ドイツで最初の強制収容所、ダッハウ】
ドイツで国家社会主義(ナチ)党員が独裁権力を握っていた時から40年後の今日、12年間の独裁政治は過去の出来事のように思われるし、
強制収容所の恐怖は、生きのびた犠牲者と歴史家のためだけにその意味を保ち続けているように思われる。

 

しかし、今日であってもダッハウの名は恐怖を呼び起こす。この最初の強制収容所は非人道的な場所の象徴であり続けている。
それはどのようにして始まったのか? 外の世界には何が起こっているかがほとんど知られていなかった12年間にそこで何が行われていたのか?

 

ヒトラーとその信奉者達が権力を握った1933年1月30日の後すぐに、政治的対立者への残酷な迫害と組織的排除を始めた。
1933年3月20日、ハインリヒ・ヒムラーはミュンヘンの警察署長に就任してわずか11日で、ダッハウ強制収容所の建設を発表した。翌日、「5000人を収容する収容所がダッハウ地域に水曜日に設置される。すべての共産党員、および国家保護上必要な限り国旗団と社会民主党員を拘留する」と発表された。

 

保護拘置に入れられたダッハウの最初の囚人のグループは、もとはバイエルン州警察に監視されていた。
第一次世界大戦で使われ放棄された軍需品工場のこの場所が、ヨーロッパ中から集められた囚人から成る奴隷的労働者の強大な貯蓄所になるとは、彼らの誰も思い付きはしなかった。 そしてそこはSS(ナチス親衛隊)にとって理想的な殺人養成施設であった。

 

1933年4月11日にSSがこの収容所を管理下に置いたとき、囚人達はほんのわずかな市民権を失い、独裁支配に無防備な状態となった。
1933年7月にダッハウの所長になったテオドール・アイケは、収容所における細かな規律の編成計画を作った。これは他のすべての強制収容所でも使われることとなった。 それぞれの収容所は囚人たちの居住区を高電圧フェンスと監視塔で囲み、これらとは別に行政ビルと兵舎のある軍事管轄区域があった。

 

1934年にアイケはすべての強制収容所を管轄する監察長官に任命された。
大衆に恐怖を広げ、政権の反対者を黙らせる効果的な手段として彼のこのダッハウを手本にし施設を広げていった。 
事実上、ダッハウはSSの養成施設となった。ここのメンバーはまず、彼らを劣等者であると見、何か起こった際にためらわずに殺害することが適宜な対処であることを学んだ。数年後にSSは何もためらうことなく無実の人々をガス室で抹殺するようになった。国家社会主義の理念の、血に染まった残酷なものへ変化はダッハウ強制収容所の中で始まったのである。



次項以降もいずれブログにアップします。

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